罪 。
最初に聞こえたのは、何かが床に落ちる鈍い音だった。
次に、息が止まったみたいな静けさ。
桐生は、まだ拳を握ったまま立ち尽くしていた。殴った感触が、指の骨に残っている。思ったよりも軽くて、思ったよりも簡単で――それが、何よりも恐ろしかった。
床に倒れた男は、もう動かない。
胸が上下しない。喉の奥から、かすかな音すら漏れてこない。
「... 、あーあ 。」
真島吾朗が、乾いた声で笑った。
笑った、はずだった。
「やってもうたなァ 、桐生ちゃん 。」
軽口みたいな言い方なのに、真島の目は一切笑っていない。血のついた手袋を外しながら、床の死体を見下ろしている。その視線は、慣れている人間のものだった。
桐生はようやく息を吸った。肺が痛いほど重く空気を飲み込む。
「..... 。俺が 、やった .... 。」
声が、思った以上に低く出た。
言葉にした瞬間、逃げ道が完全に塞がれた気がした。
「せやなァ」
真島は否定しなかった。
代わりに、肩をすくめて言う。
「せやけどな ?? ここにおるんは二人や 。」
真島が近づいてくる。床に広がった血を踏み、桐生の前に立つ。その距離がやけに近い。
「桐生ちゃん一人で背負う話やあらへん 。――俺も噛んどる 。」
桐生は、真島を見た。
この男は、最初から分かっていたのだ。こうなることを。こうなる覚悟を。
「.... 。処理 、するぞ 。」
そう言ったのは桐生だった。
でも、意外なくらい冷静な声だった。
「お 、言うやんか 。」
真島はにやりと口角を上げる。
けれど、その笑みはどこか歪んでいた。
「ほな ... 、山やな 。人目も少ないし 、朝までには終わる 。」
死体を袋に詰める作業は、驚くほど無言だった。
チャックを閉める音がやけに大きく響く。
静寂を埋めるよう鈍く響いた。
桐生は最後に一度だけ、袋の中を見た。
そこにあるのは、ただの“物”だ。そう思わなければ、手が止まってしまう。
「見るな ... 。」
真島が低く言った。
「見ると戻れんくなるで 。」
桐生は何も言わずに視線を逸らした。
戻る場所なんてもうない。
車に積み込まれた袋は、異様なほど静かだった。
エンジンがかかる。
「なァ 、桐生ちゃん 。」
ハンドルを握りながら、真島が言う。
「今さらやけどな .... 。後悔 、しとる ??」
桐生は、フロントガラスの先を見る。
夜の街が、何も知らない顔で流れていく。
「... 、してない 。」
一拍置いて、続けた。
「 .... 、後悔する資格が俺にはない 。」
真島は、ふっと息を吐いた。
それが笑いなのか、ため息なのか、分からなかった。
「ほな行こか 。」
山へ向かって走り出す。
二人が戻れない場所へ確実に近づきながら。
夜明け前の山は、やけに静かだった。
土を掘る音だけが、やけに大きく響く。
真島は黙ってスコップを振るっていた。二十代の身体はまだ軽く、動きに無駄がない。けれど、その目だけが、妙に乾いている。
隣で桐生一馬が土嚢袋を押さえている。中身が何かなんて、考えるまでもなかった。考えないようにしている、と言ったほうが正しい。
「.... なあ 、桐生ちゃん ... 。」
真島がぽつりと声を落とす。
桐生は答えず、ただ視線を地面に落としたままだった。
引き返せる場所は、もうとっくに過ぎている。
ここに埋めるのは“死体”だけじゃない。昨日までの自分たちの感情も一緒だ。
湿った土の匂いが、夜気に混じって肺に入り込む。
桐生は拳を握りしめた。――自分たちが殺したという事実が、まだ身体のどこにも収まってくれなかった。
穴は、もう十分に深かった。
それでも真島は、スコップを止めなかった。
必要以上に、乱暴に、まるで地面に八つ当たりするみたいに。
「.... 。もういいだろ ....。」
背後から、桐生の声がした。
掠れている。喉を潰したみたいな声だ。
「死体 ....、入る .... 。」
真島は、スコップを振り下ろしたまま止まる。
肩で息をしているのが、自分でも分かった。
「.... 、せやな 。」
振り返ると桐生が立っていた。
袋の端を掴んで、動かずに。
顔がひどかった。
泣いてはいない。叫んでもいない。
――ただ、“壊れかけ”の顔をしている。
「.... 、桐生ちゃん 。」
真島はゆっくりと桐生に近づいた。
「 .... なァ 。今 、何考えとる ??」
桐生はしばらく黙っていた。
やがてぽつりと呟く。
「.... 、俺が 、殴らなければ ... 。」
真島の眉がわずかに動く。
「俺が ....あのとき止まれていれば ... 。」
桐生の声が震え始める。
「そしたら .... こんなことには ... 。」
「――やめとけ ... 。」
真島の声が低く割り込んだ。
「それ以上言うな 。」
桐生は、顔を上げる。
「でも .... 、!!」
「.... 、おい 。聞け言うとるやろ 。」
一歩、踏み出す。
真島は、桐生の前に立った。
「... 後悔はなァ 、あとで腐るほど出来る 。」
指で桐生の胸を突く。
「... 。せやけど今は違う ... 。今ここで壊れたら、
ほんまに終わりや 。」
桐生の唇がかすかに開く。
「.... 。俺 、怖い .... 。」
その一言で、真島の中で何かが切れた。
「当たり前やろ ... 、 !!」
怒鳴り声が山に響く。
「怖ない殺しなんかあるかいな 、!!」
真島は、桐生の肩を掴んだ。
「俺やって怖いわ 、!! 手ぇ洗うても 、血の感触が落ちへん !!」
初めてだった。
真島が自分の弱さをそのまま吐き出すのは。
「せやけどなァ .... 。」
声が急に低くなる。
「怖いから言うて 、なかったことには出来へんのや 。」
額を桐生の額に押し当てる。
「逃げたい言うなら 、俺を踏み台にして逃げろ 。」
歯を食いしばった。
「せやけど .... 、俺は桐生ちゃんを一人で地獄に行かせる気はない 。」
桐生の目から、初めて涙が落ちた。
一滴土に染み込む。
「 .... 、兄さん .... 。」
名前を呼ばれた瞬間、真島の手が震えた。
「... 、頼む 。」
桐生は、掴んだまま、離さない。
「ここに .... 、一緒にいろ 。」
真島は一瞬だけ目を閉じる。
そして、短く笑った。
「...... ほんま、重たい男や 。」
袋を二人で持ち上げる。
落とす瞬間、桐生の腕が止まる。
真島は、迷わず言った。
「見るな 。」
鈍い音。
すべてが、穴の底に消える。
桐生は崩れ落ちるように膝をついた。
肩が、小さく揺れている。
真島は何も言わず、土をかけ始めた。
一杯、また一杯。
やがて桐生も立ち上がり、無言で土を投げる。
二人の呼吸だけが、夜に混じる。
最後に、穴が完全に埋まったとき。
「.... なァ 、桐生ちゃん 。」
真島が言った。
「絶対今日のこと忘れたらアカン 。」
桐生は小さく頷く。
「でもな ... 。」
一拍置いて、続ける。
「一人で思い出すのもあかんで 。」
桐生はゆっくり顔を上げた。
「.... 、ああ 。」
夜明け前の空が少しだけ白み始めていた。
戻れない場所を、もう振り返ることは出来なかった。
山を下りる道は、思ったより長く感じた。
夜の闇が薄れていくたび、街の光が近づくたび、桐生は胸が締め付けられた。
あの穴の中に、何かが埋まっている。
それが“人”であることは、変わらない。
変わらないのに、桐生の頭は――
「もう終わった」
と、言い聞かせることに必死だった。
車内は静かだった。
エンジン音だけが一定のリズムで揺れている。
真島は窓の外を見ていた。
桐生の方は見ない。
桐生は、視線を落とす。
握りしめた手の甲に、まだ血の感触が残っている気がした。
それは錯覚だ。
そう思うのに、指先はまだ震えている。
「... 、桐生ちゃん 。」
真島が、ふいに声を出す。
桐生は、反射的に顔を上げた。
「何だ 。」
「... 俺な 。」
真島が視線を逸らす。
「お前が俺のこと .... 、必要やって思った時 、ちょっと怖かった 。」
桐生の胸がぎゅっとなる。
「.... 、俺もだ」
素直に言う。
言葉が出ると、なぜか少しだけ楽になる。
「.... 俺、兄さんがいなかったらここで止まれなかった 。」
真島は笑った。
「そやな。お前 、止まらへんタイプやもんな」
「..... 兄さんが止めてくれた 。」
桐生は言い切った。
真島の笑みが、ふっと消える。
「止めた 、って言うか .... 。」
真島はゆっくりと息を吐いた。
「俺もお前がいなかったら .... 、止めることを選ばんかったかもしれん」
その言葉に、桐生は息を呑んだ。
「.... 、兄さん 。」
「.... お前は、俺の“歯止め”や」
真島が、初めて桐生をまっすぐ見た。
「俺が暴走した時止めてくれる存在 。それがお前や 。」
桐生は視線を逸らす。
そんな風に言われたことが怖かった。
“必要”と言われると、どこかで嬉しくなる。
でもそれは同時に、何かを縛られる感覚でもあった。
桐生は言葉を選ぶ。
「... 俺も 、兄さんの歯止めになりたい 、」
真島の目が細くなる。
「....... 。それ 、嫌や 。」
桐生は、驚いて顔を上げた。
「え ??」
「嫌 。」
真島は静かに続けた。
「お前が俺の歯止めになるんは嫌や 。」
桐生の心臓が、強く跳ねる。
「じゃあ .... 、何になるんだ ??」
真島の声が優しくなる。
「んー .... 。“一緒に壊れる相手”.... や 。」
桐生の唇が震える。
「それってつまり .... 。」
「一緒に落ちる」
真島がにやりと笑う。
「止めるためにおるんやない 。
お前がいれば 、俺は安心して壊れていける 。」
桐生は目を閉じた。
その瞬間、何かが決まった。
胸の中の線がひとつ消えた。
“壊れるのは悪いことだ”
そう思っていた。
けれど、今は違う。
壊れることが、二人の繋がりの形になるなら――
桐生は恐ろしくなった。
それでも、心の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
車が街に入る 。
明かりが増える 。
人の気配が近づく 。
「桐生ちゃん」
真島が、また言う。
「明日もあの山 、行くか ??」
桐生は、言葉を失う。
「.... 、なんで ⁇」
「穴 、まだ浅い気がする 。」
真島は笑った。
「埋めたはずやのに 、まだ心が落ち着かへん 。だから 、もう一回埋め直したい」
桐生は、急に吐き出した。
「... 。それは逃げだ」
真島は少しだけ首を傾げた。
「そうか ??」
「... 、ああ 。」
桐生は続ける。
「俺たちが逃げた先にあるのはただの“現実”だ 。
山に戻っても 、現実は変わらない 。」
真島はしばらく黙った。
やがて、静かに言った。
「.... 。現実ってな 、怖いんや 。」
桐生の胸がまた締め付けられる。
「怖いから 、二人でその現実を埋めるんや 。」
言葉が出ない。
真島の目は、いつもより真剣だった。
「桐生ちゃん 。
お前が俺を必要とする限り 、俺はお前を離さへん 。」
桐生は、拳を握りしめた。
「.... 。俺も兄さんがいないと壊れる 。」
その言葉が出た瞬間、桐生は驚いた。
自分でも驚くほど、素直に出た。
真島は少しだけ笑う。
「ええやん 、そんなん 。」
桐生は俯く。
「.... 、それでも 、いいのか ??」
真島は答えずに指を一本立てた 。
「約束や 。」
桐生が見上げると、真島は静かに言った。
「お前が俺の隣におる限り 、俺はお前を守る 。
お前が俺の隣におる限り 、俺は壊れん .... 。たぶんな 。」
真島は笑った。
その笑いは、どこか哀しみを含んでいた。
「でも 、壊れてもいい 。
壊れたら 、また一緒に直したらいい 。」
桐生は、初めて真島の肩に手を置いた。
それは、兄弟の距離でも、恋人の距離でもない。
ただ、二人が同じ穴の中に落ちたことを確認するための、確かな触れ合いだった。
夜明けの街は、何も知らない顔で彼らを迎える。
けれど、二人の中の世界は、確実に変わっていた。
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