最後の診察
医師免許を取得して三年目の秋、私は地方の総合病院に赴任した。
着任早々、看護師長から奇妙な申し送りを受けた。
「毎週木曜日の午後8時に、必ず一人の患者さんが来ます。カルテはありません。診察室に通して、先生がいつも通り診察してください。ただし——」
看護師長は声を潜めた。
「絶対に、患者さんの顔を見ないでください」
私は笑った。何かの新人いじめだろうと思った。
だが、その木曜日。定刻になると、本当に患者が来た。
診察室のドアが開き、誰かが入ってくる気配がした。足音はない。ただ、空気が重くなった。
「どうされましたか」
私は電子カルテに目を向けたまま尋ねた。
「...痛いんです」
掠れた声。男性か女性か判別できない。
「どこが痛みますか」
「...全身が」
私は本能的に顔を上げそうになり、慌てて視線を逸らした。看護師長の警告が脳裏をよぎる。
「いつからですか」
「...ずっと。ずっと痛いんです。助けてください、先生」
声が次第に近づいてくる。診察台に座ったのだろうか。いや、まだ近い。机の向こう側、私のすぐ目の前にいる。
冷たい汗が背中を伝う。
「検査をしましょう。採血を——」
「先生、私を見てください」
「いえ、まずは——」
「お願いです。私を見てください。誰も、私を見てくれないんです」
声が震えている。泣いているのかもしれない。
私は迷った。目の前で苦しんでいる患者を見ないなんて、医師として間違っているのではないか。
「...分かりました」
私はゆっくりと顔を上げた。
そこには——
誰もいなかった。
椅子も診察台も空っぽだった。
ほっとして息をついた瞬間、背後から声がした。
「ありがとうございます、先生」
振り返ると、そこに「それ」はいた。
人の形をしているが、顔がない。いや、顔はあるのだが、全てが「内側」に陥没している。目も鼻も口も、頭蓋の中心に向かって吸い込まれているのだ。
「やっと...やっと見てもらえました」
それは嬉しそうに言った。陥没した口から。
「これで、先生も私と同じです」
私は悲鳴を上げようとしたが、声が出なかった。
鏡を見ると、私の顔も内側に引き込まれ始めていた。
次の木曜日。
新しく赴任してきた若い医師に、私は看護師長として申し送りをする。
「毎週木曜日の午後8時に、必ず患者さんが来ます。診察室に通して、先生がいつも通り診察してください。ただし——」
私は声を潜める。陥没した口で。
「絶対に、患者さんの顔を見ないでください」