フィクションじゃない
第1話 / 全8話 · 3,415字 · 約7分
文芸部の夏合宿は、毎年八月の第二週に行われる。場所は顧問の叔父が持っているという山間の貸別荘で、築三十年はゆうに超えた木造の建物だ。WiFiは辛うじて繋がる程度で、テレビもない。だからこそ、と部長の桐島は毎年言う。「書くことに集中できる最高の環境だ」と。
僕──篠崎蓮は、この合宿が嫌いではなかった。むしろ楽しみにしていた。普段の部活動は各自が黙々と原稿を書くだけの地味なものだが、合宿には恒例のイベントがある。
犯人当て小説リレー。
五人の部員がそれぞれ一章ずつ書き、最終章の前で止める。残りの一人が「犯人」を推理し、的中させれば勝ち。外せば書いた側の勝ち。ただそれだけの遊びだが、文芸部員同士の意地がぶつかる分、毎年かなり白熱する。
今年の参加者は五人。部長の桐島、副部長の永瀬、二年の安藤と三好、そして僕。もう一人、本来なら六人目がいるはずだった。二年の宮野咲良。でも彼女は去年の秋に退部届を出して、それきりだ。
合宿二日目の夜、リレー小説が完成した。
舞台は地方の旧家。当主が書斎で毒殺され、屋敷にいた五人の関係者にはそれぞれ動機がある──という王道の設定だった。僕は推理する側、つまり「探偵役」に回された。
読み始めてすぐに気づいたのは、文章の質が例年より格段に高いことだった。特に第三章。安藤が書いたパートなのだが、容疑者の一人──屋敷に居候している遠縁の少女・サクラの描写が異様に生々しかった。
サクラは当主から性的な虐待を受けていた。それを示す直接的な描写はないが、行間から滲み出ている。彼女は屋敷の中で誰にも助けを求められず、笑顔の下に絶望を隠していた。当主を殺す動機としては十分すぎるほどだった。
だが僕は安藤の意図を読んだ。これはミスリードだ。動機が強すぎる容疑者は、ミステリのセオリーでは犯人ではない。
僕は第一章から丁寧に読み直し、伏線を拾っていった。毒物の入手経路、アリバイの空白、各章に散りばめられた時系列の矛盾。二時間かけて組み立てた推理は、一つの結論を示していた。
犯人は「屋敷の管理人・トウマ」。
桐島が書いた第一章に登場する、一見すると背景に過ぎないキャラクターだ。だが彼だけが毒物に日常的にアクセスでき、第二章で永瀬が書いた「庭の花壇が最近荒らされた」という一文が、トウマが毒草を栽培していた痕跡を消したことを示唆していた。
僕が推理を発表すると、桐島が大きく手を叩いた。
「正解だ、篠崎。完璧だよ」
他の部員たちも感心した様子で頷いていた。安藤だけが少し青い顔をしていたが、僕はそれを「自分の章でミスリードが見破られた悔しさ」だと思った。
異変に気づいたのは、その夜の消灯後だった。
眠れなくてリレー小説を読み返していた僕は、安藤が書いた第三章のある一節に目が止まった。
「サクラは水曜日の放課後だけ、屋敷の裏手にある物置小屋に逃げ込んだ。そこでだけ、泣くことが許された」
水曜日の放課後。
宮野咲良が退部届を出す前、彼女はよく水曜日の部活を休んでいた。理由はいつも「塾がある」だった。でも三好が一度、水曜の夕方に駅前の塾街を歩いたとき、咲良の姿はどこにもなかったと言っていた。
偶然の一致だと思おうとした。
でも読み進めるほど、偶然では説明がつかなくなっていった。
サクラの容姿の描写──「左の耳たぶにだけピアスの穴がある。開けたのは自分ではないと、彼女は言った」。宮野咲良の左耳には確かにピアスの穴があった。一年の文化祭の写真で、僕はそれを見ている。
サクラが当主の書斎に呼ばれるとき、必ず「爪を短く切った」という描写。咲良が二年になってから急にネイルをやめ、深爪気味になっていたこと。
そして──「サクラは誰にも言えなかった。言えば壊れるのは自分だとわかっていたから。加害者は社会的に信頼されている人間で、誰もサクラの言葉を信じないだろう」
当主の名前は「義隆」。
宮野咲良の父親の名前を、僕は知らない。知らないが、安藤は知っているかもしれなかった。安藤と咲良は中学からの同級生だ。
翌朝、僕は安藤を別荘の裏手に呼び出した。
「第三章のこと、聞いていいか」
安藤は僕の目を見なかった。
「……何が」
「サクラは宮野のことだろう。当主は宮野の父親だ」
長い沈黙があった。山の朝は静かで、鳥の声だけが聞こえた。
「咲良に頼まれたんだ」
安藤はようやく口を開いた。声は掠れていた。
「咲良は誰にも直接言えなかった。でもこのまま何もなかったことにはしたくないって。だからせめてフィクションの形にしてほしいって。小説の中でだけでも、誰かに知ってもらいたいって……」
「じゃあ、犯人をトウマにしたのも」
「そう。サクラを犯人にするわけにはいかなかった。小説の中でまで、咲良を加害者にはしたくなかった。だから桐島先輩に頼んで、犯人は別のキャラクターにしてもらった。咲良の章はあくまで動機のミスリードとして処理されるはずだった」
「桐島先輩も知ってるのか」
「知ってる。永瀬先輩も。三好も。……知らなかったのは、篠崎、お前だけだ」
全身の血が冷えていくのがわかった。
「僕だけ?」
「お前は鋭すぎるから。推理力が高すぎるから。気づくかもしれないって、みんな怖がってた。でも咲良が言ったんだ。『篠崎くんなら大丈夫。あの人はフィクションとして読んでくれるから』って」
咲良は僕を信頼していたのだ。僕がただの「物語」として楽しんでくれると。僕の推理力を、自分のフィクションを壊す刃としてではなく、物語を物語のまま受け取れる知性として信じてくれていた。
そして僕は、その信頼を裏切った。
「安藤、僕の推理──あの発表のとき、僕はサクラの動機を全部喋ったよな」
「……ああ」
「『虐待の動機がある容疑者は犯人ではない。なぜならこれはミスリードだから』って。僕はそう言った。サクラの──咲良の経験を、推理のための材料として、全部分解して見せた」
安藤は何も言わなかった。
「僕は咲良のSOSを、トリックの一部として処理したんだ」
安藤の目に涙が浮かんでいた。でもそれは僕のためではなく、咲良のための涙だった。
「最悪なのはそこじゃない、篠崎」
「……何?」
「お前が推理を発表してるとき、咲良からLINEが来てた。合宿どうだったって。リアルタイムで聞いてたんだよ。三好が通話繋いでた」
世界が傾いだ気がした。
「咲良は、聞いてたのか」
「全部。お前が自分の経験を『ミスリード』と呼んだのも、『動機としては十分だが犯人ではない』と切り捨てたのも、全部聞いてた」
* * *
僕は正しかった。
推理としては完璧だった。犯人を当て、ロジックに穴はなく、伏線の回収も見事だった。部員全員がそう認めた。
でも僕は、一人の少女が命がけで差し出した声を、「フィクションの技巧」として鑑賞し、採点し、解体した。
合宿から帰った翌日、僕は咲良にLINEを送った。何を書けばいいかわからなかった。『ごめん』も『知らなかった』も、全部が言い訳にしかならなかった。結局、三十分かけて打った長文を全部消して、一言だけ送った。
「読んだよ」
既読はついた。
返信は来なかった。
一週間後、咲良のLINEアカウントは消えていた。
安藤に聞いても「わからない」としか返ってこなかった。桐島先輩も永瀬先輩も、合宿以降、僕と目を合わせなくなった。部室に行くと会話が止まる。僕が何かを壊したのだと、全員が知っていた。僕だけが、壊したものの全容を知らなかった。
二学期が始まっても、宮野咲良は学校に来なかった。
担任は「家庭の事情」とだけ言った。
僕の推理力は何も救わなかった。正解を出す能力だけが異様に高くて、それが何を意味するのか理解する能力が決定的に欠けていた。
窓の外を見ると、夏が終わりかけていた。
あの合宿で僕が読んだ物語は、フィクションじゃなかった。
そして僕がやったことも──推理という名の暴力も──フィクションには、ならなかった。