守りたかったのに
第8話 / 全8話 · 6,555字 · 約14分
刺されたのは、放課後の体育館裏だった。
被害者は同じクラスの小野寺恵。左の脇腹を刃物で一突き。傷は浅く、命に別状はなかった。だが出血量は多く、恵は意識を失った状態で発見された。
発見したのは僕──真壁颯太だ。
部活の帰りにたまたま通りかかったのではない。僕は恵を探していた。恵が六限目の途中で教室を出て行ったまま戻らなかったから。担任は気にしていなかったが、僕は気になった。恵は最近、早退や欠席が増えていた。
体育館裏に倒れている恵を見つけたとき、僕は叫び声を上げた。自分ではそのつもりはなかったが、近くにいた教師が駆けつけてきたので、かなりの声量だったのだろう。
救急車が来るまでの間、僕は恵のそばにいた。制服のシャツの左脇腹が赤く染まっていた。恵の顔は白く、唇は紫色だった。息はあった。僕は自分の体操服を丸めて傷口に当て、押さえ続けた。
恵の目が薄く開いた。
僕を見て、何か言おうとした。唇が動いた。声にはならなかった。
でも僕には読めた。
「言わないで」
恵が入院している間に、警察の捜査が始まった。
体育館裏に防犯カメラはなかった。凶器は現場に落ちていた折りたたみナイフで、ホームセンターで購入できる汎用品だった。指紋は検出されなかった。犯人は手袋をしていたか、ハンカチなどで柄を包んでいたとみられる。
恵は意識を回復した後も、犯人について一切語らなかった。
「知らない人だった」
それが恵の証言のすべてだった。
だが警察は納得しなかった。通り魔にしては状況が不自然だった。学校の敷地内、放課後の時間帯、体育館の裏という人目につきにくい場所。恵がそこにいることを知っている人間の犯行だと考えるのが自然だった。
僕も納得していなかった。
「言わないで」。恵はそう言った。あれは「犯人を知っている」という意味だ。知らない人間に刺されたなら、「言わないで」とは言わない。
恵は犯人を庇っている。
僕が恵のことを気にかけていた理由を、正直に書く。
好意があった。恋愛感情と呼ぶには曖昧で、友情と呼ぶには偏りのある、そういう感情。一年の頃から同じクラスで、恵は控えめで目立たない生徒だったが、たまに見せる笑顔が鮮烈だった。他の誰も気づかない場面で、ふっと笑う。その瞬間を見るたびに、胸の奥がざわついた。
だから恵の異変に気づいた。他の誰よりも早く。
二年になってから、恵の腕に痣が見えることがあった。体育の授業で半袖になったとき、二の腕に紫色の痣。一度ではない。何度も。場所は毎回違ったが、いつも長袖で隠れる位置だった。
僕は恵に聞いた。「その痣、どうしたの」と。
恵は笑って言った。「ドジだから、ぶつけちゃって」と。
嘘だと思った。でもそれ以上踏み込めなかった。
そして今、恵は刺された。犯人を知っていて、庇っている。
僕は恵のために真相を突き止めなければならないと思った。恵が自分では言えないなら、僕が代わりに明らかにする。それが恵を守ることだと信じていた。
調査を始めた。
まず恵の交友関係を洗った。恵は友人が少なかった。クラスでよく話していたのは三人程度。部活は入っていない。放課後はまっすぐ帰宅する日がほとんどだった。
次に、恵の家庭環境を調べた。恵の家族構成は母親と兄の三人暮らし。父親は恵が小学生のときに離婚している。兄は二十歳で、フリーターだと聞いた。
恵の数少ない友人の一人、橋本に話を聞いた。
「恵、最近ちょっとおかしかったんだよね。急に泣き出したり、逆にすごく元気だったり。波が激しくて」
「何か理由は聞いた?」
「聞こうとしたけど、『大丈夫』って。恵はいつも大丈夫って言う。大丈夫じゃないときほど大丈夫って言う子だから」
もう一人の友人、池上はもう少し核心に近いことを言った。
「恵のお兄さん、ちょっとやばい人だよ。一回、学校の近くまで迎えに来てたことがあって。恵、すごく嫌そうな顔してた。私が手を振ったら、お兄さんがすごい目で睨んできて」
「やばいって、どういう意味で」
「……わかんない。ただ、恵がお兄さんの話をするとき、いつも声が小さくなるの」
僕の中で仮説が固まっていった。
恵の腕の痣。「大丈夫」を繰り返す癖。兄の存在。犯人を庇う理由。
恵は兄から暴力を受けている。そして体育館裏で刺したのも兄だ。恵が庇っているのは、家族だからだ。家庭内の暴力の被害者が加害者を庇うのは、DVの典型的なパターンだと、本で読んだことがある。
僕は確信に近いものを持って、行動を起こした。
まず担任に相談した。恵の家庭環境について、痣のこと、兄のこと。担任は深刻な顔で聞いていたが、「憶測だけでは動けない」と言った。
次に警察に情報提供した。匿名で。恵の兄が犯人ではないかという推理と、その根拠を伝えた。
そして──これが最も取り返しのつかない行動だったのだが──橋本と池上に、自分の推理を話した。「恵を守るために」という名目で。二人にも兄の危険性を認識してほしかった。恵が退院した後のサポート体制を作りたかった。
橋本と池上は衝撃を受けていた。そして僕の推理を、信じた。
恵が退院して学校に戻ってきたのは、事件から三週間後だった。
左脇腹にはまだ包帯が巻かれていて、体育は見学だった。でも恵は笑っていた。いつもの、控えめな笑顔で。
「心配かけてごめんね」
恵は僕にそう言った。僕は何も言えなかった。
その週末、恵の兄が任意同行で警察に連れていかれた。
僕の情報提供がきっかけだった。警察が独自に裏付け捜査を行い、兄の行動に不審な点が見つかったのだという。兄はアリバイを主張したが、証拠が不十分だった。
翌週の月曜、恵は学校に来なかった。
火曜も。水曜も。
木曜の朝、恵からLINEが来た。
「真壁くん。お兄ちゃんのこと、警察に言ったのは真壁くん?」
僕は正直に答えた。
「そうだ。恵を守りたかった」
返信は三十分後に来た。
「来てほしい場所がある」
指定されたのは、駅から徒歩十分ほどの公園だった。平日の昼間で、人はほとんどいなかった。
恵はベンチに座っていた。コートの襟を立てて、顔の半分が隠れていた。
僕が隣に座ると、恵は正面を向いたまま話し始めた。
「お兄ちゃんは、刺してない」
「……え?」
「お兄ちゃんじゃない。犯人は、お兄ちゃんじゃない」
僕の思考が止まった。
「でも──痣は」
「あれはお兄ちゃんだよ。殴られてた。それは本当。でも刺したのはお兄ちゃんじゃない」
「じゃあ誰が」
恵は長い沈黙のあと、コートの襟を下ろした。
首の右側に、新しい痣があった。指の形がくっきり残っている。絞められた痕だ。
「お母さん」
僕の世界が反転した。
「刺したのは、お母さん。お兄ちゃんが私を殴ってることに気づいて、お母さんがお兄ちゃんを追い出そうとした。でもお兄ちゃんは出て行かなかった。お母さんはどんどん追い詰められて、ある日『あんたさえいなければ、こんなことにはならなかった』って」
恵の声は震えていなかった。事実を読み上げるように、淡々と。
「お母さんは、私が兄に殴られるのを見るのが耐えられなかったの。でもお兄ちゃんを止められなかった。止められない自分が許せなくて、その矛先が私に向いた。『あんたが我慢すればいいのに、なんで痣なんか見せるの』って。『お前が余計なことしなければ平和だったのに』って」
「それで──」
「あの日、体育館裏に呼び出されたの。お母さんに。お母さんはナイフを持ってた。最初は自分の手首に当てて、『もう楽になりたい』って。私が止めようとしたら、逆に——」
恵はそこで初めて声を詰まらせた。
「お母さんは刺した後、泣いてた。『ごめんね、ごめんね』って。そしてどこかに行った。私は——お母さんを犯人にしたくなかった。お母さんが捕まったら、私は一人になる。お兄ちゃんとは暮らせない。施設に入るしかなくなる」
「だから『知らない人だった』と——」
「そう。お母さんを守りたかった。刺されたのはいい。傷は浅かったし。でもお母さんを失うのは——」
恵は僕を見た。その目に涙はなかった。泣き尽くしたあとの、乾いた目だった。
「真壁くんがお兄ちゃんを犯人だと思ったのはわかる。痣のことも、お兄ちゃんの態度も、全部状況的には合ってる。でも違った。お兄ちゃんは暴力は振るったけど、刃物は使わない人なの。殴るけど、殺しはしない。そういう加害の仕方をする人なの」
その区別を、十六歳の少女が当たり前のように説明していることに、僕は吐きそうになった。
「お兄ちゃんが警察に連れていかれたでしょう。それでお母さんが完全に壊れた。自分が刺したのに、息子が疑われてる。自首しようとした。でも自首したら——」
「恵が一人になる」
「そう。だから私がお母さんを止めた。『私が警察に嘘をついてるから大丈夫、お兄ちゃんは証拠がないから釈放される、だからお母さんは黙ってて』って。でもお母さんは罪悪感で潰れそうになってて、私にあたるようになった。首を絞められたのはおとといの夜」
恵が話し終えたとき、僕は自分の手が震えていることに気づいた。
僕は何を間違えたのだろう。
兄が暴力を振るっていた。それは事実だ。
だが僕はその事実から「兄が刺した」という結論に飛躍した。恵が庇っている理由を「兄だから」と決めつけた。実際に恵が庇っていたのは母親だった。
僕の推理は表面的な整合性だけを持っていた。痣があるから兄が犯人。犯人を庇っているから家族。論理としては成り立つ。だが恵の内側で起きていた、もっと複雑で、もっと絶望的な力学を、僕は想像すらしなかった。
殴る兄。壊れていく母親。その間で「家族」という形を必死につなぎ止めていた恵。刺されてなお、母親を守ることを選んだ恵。
その構図の中に、僕が介入した。
兄を犯人として警察に差し出した。それによって母親の精神状態がさらに悪化し、恵への暴力がエスカレートした。恵は母親を止めながら、兄を守りながら、自分の傷を抱えながら、すべてを一人で支えていた。
僕の「正義」が、恵が必死に保っていた均衡を壊した。
「真壁くんは、私を守りたかったんだよね」
恵は穏やかな声で言った。責めるような調子ではなかった。むしろ──慰めるような。
「うん」
「ありがとう。気持ちは嬉しかった。誰かが私のことを見てくれてるって思うだけで、少し楽だった」
「でも結果的に——」
「結果的に、全部めちゃくちゃになった。うん。でもね、真壁くんのせいだけじゃないよ。もともとめちゃくちゃだったの。真壁くんがやったことは、倒れかけてたドミノを押しただけ。いつか倒れてた」
恵は笑った。あの笑顔だった。誰も見ていない場所で、ふっと見せる笑顔。
僕が好きだった笑顔。
でもその笑顔の裏側にあったものを、僕は何も見えていなかった。
「真壁くんにお願いがある」
「何でも言って」
「お兄ちゃんのことは、撤回してほしい。警察に、自分の推理が間違ってたって」
「もちろん。すぐに連絡する」
「それと──お母さんのことは、言わないで」
僕は言葉に詰まった。
「恵、でも首の痣──」
「大丈夫。もう大丈夫だから」
大丈夫。恵はいつもそう言う。大丈夫じゃないときほど大丈夫って言う子だから。橋本がそう言っていた。
「恵」
「お願い。お母さんを取らないで」
その声は、十六歳の少女の声ではなかった。もっと幼い、五歳か六歳の子供の声だった。母親を奪われることへの根源的な恐怖。それは論理ではない。理屈ではない。頭ではわかっていても、心が拒否する。
僕は何も言えなかった。
恵が求めていたのは正義ではなかった。真実を暴かれることでもなかった。
ただ、今のまま──壊れかけの、歪んだ、でも確かに存在する「家族」のまま──生きていくことだった。
それが正しいのか、間違っているのか、僕にはわからない。
でも恵がそれを望んでいる以上、僕に何ができる。
兄の容疑は撤回された。証拠不十分で、そもそも立件には至らなかったらしい。
事件は未解決のまま処理された。通り魔的犯行の可能性が高いとして、捜査は縮小された。
恵は学校に戻ってきた。
以前と同じように、控えめに、静かに、席に座っていた。腕の痣は見えなくなっていた。長袖の季節だから当然かもしれない。首の痣も、マフラーの下に隠れていた。
僕は恵の隣の席で、何も知らないふりをしている。
恵が「大丈夫」と言うたびに、僕は頷く。大丈夫じゃないことを知りながら。
恵の家で今何が起きているのか、僕は想像することしかできない。兄は戻ってきたのか。母親の精神状態はどうなのか。恵の体に新しい痣はないか。
知りたい。でも聞けない。
僕が踏み込めば、また何かが壊れる。前回の介入がそれを証明した。
かといって、黙って見ているだけでいいのか。恵の首に指の痕が残っているのを知っていて、何もしないのが正しいのか。
通報するべきだ。児相に。警察に。頭ではわかっている。
でも恵は「言わないで」と言った。
「お母さんを取らないで」と。
恵の願いを無視して通報することは、恵を「守る」ことなのか。それとも恵の意思を踏みにじる「暴力」なのか。
第2話の「壁の向こうの正義」を、僕は恵の顔を見ながら追体験している。
通報は正しい。でも正しさは恵の味方ではないかもしれない。
僕にできるのは、毎日学校で恵の顔を見ることだけだ。痩せていないか。痣が増えていないか。笑い方が変わっていないか。
見守ること。それだけ。
それは何の解決にもならない。でもそれ以上のことをする資格が、僕にあるとは思えない。
二月のある日、恵が珍しく僕に話しかけてきた。
「真壁くん、最近ちゃんと寝てる? 顔色悪いよ」
僕は苦笑した。
「寝てるよ。大丈夫」
「本当に?」
「大丈夫」
恵が少し笑った。
「真壁くんも『大丈夫』って言うんだね」
僕たちは目を合わせた。
互いの「大丈夫」が嘘であることを、二人とも知っていた。
でもそれ以上のことは言わなかった。言えなかった。
恵は前を向いて、授業のノートを開いた。
僕もノートを開いた。
二人の間には机一つ分の距離しかない。でもその距離の向こうに、僕には見えない暗闇がある。恵が一人で立っている暗闇。僕はその縁に立って覗き込むことしかできない。
手を伸ばせば届く距離だ。
でも前回手を伸ばしたとき、僕は恵をもっと深い場所に突き落とした。
だから今は、手を伸ばせない。
守りたかった。
ただ、守りたかっただけなのに。