目次に戻る Ayano

壊れた家

私の家には、笑い声がなかった。
あるのは、時計の針が進む音と、床を踏む足音。それから、私が息をひそめる音だけ。
「……またか」
母の舌打ちは、私の名前よりもよく耳にした。
父は何も言わない。ただ、機嫌が悪い日は、視線が刃物みたいに鋭くなる。
殴られる理由は、いつも分からなかった。
コップを割ったから。
洗濯物を畳むのが遅かったから。
そこにいたから。
理由なんて、どうでもよかったのかもしれない。
私がそこにいること自体が、間違いだったみたいに。
「ごめんなさい」
それは謝罪じゃなくて、癖だった。
言えば、少しだけ早く終わる気がしたから。
夜になると、布団の中で膝を抱えた。
泣くと余計に怒られるから、声は出さない。
涙だけが、勝手に流れていく。
――どうして、生まれてきたんだろう。
その問いに答えてくれる人は、家にはいなかった。
唯一、外に出れば空気が変わった。
家の扉を閉めるとき、私は少しだけ生き返る。
れんは、いつもそこにいた。
「穂花、おはよ」
何でもない朝の、何でもない挨拶。
それだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
星宮れんは、私の幼馴染だった。
特別優しいことを言うわけでも、全部を守ってくれるわけでもない。
でも、れんは私を「普通」に扱ってくれた。それが、どれだけ救いだったか。
あの頃の私は、まだ知らなかった。
れんの家から漂ってくる夕飯の匂いが、羨ましかった。
「いただきます」と言える食卓。
 名前を呼ばれること。
私は、れんの後ろ姿を見ながら思っていた。
――もし、この人の家の子だったら。
そんなことを考える自分が、少しだけ嫌で、少しだけ悲しかった。
 家に帰ると、現実が待っている。
 冷たい空気。
 居場所のない部屋。
 それでも私は、生きていた。
 明日も、明後日も。
 まだ知らなかったからだ。
私の人生が、三十年しかないことを
まだこの頃の私は、
「生きる理由」じゃなくて、
「生き延びる方法」だけを探していた。
――これは、壊れた家で始まった、私の思い出。
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