目次に戻る Ayano

極楽浄土の穂花

目を開けたとき、痛みはなかった。
冷たさも、重さも、息苦しさも。
体にまとわりついていたはずのすべてが、すっと消えている。
「……ここ、どこだろう」
声は、ちゃんと響いた。
かすれていない。
誰にも遠慮しなくていい声だった。
足元には、やわらかな光が広がっている。
雲のようで、でも沈まない。
空は夕焼けでも夜でもなく、
ずっと、穏やかな色をしていた。
懐かしい匂いがした。
夕飯の匂い。
れんの家の前で、立ち止まったときのあの匂い。
「極楽浄土だよ」
後ろから、優しい声がした。
振り返ると、知らない人が立っていた。
でも、不思議と怖くなかった。
「……私、死んだんですか」
そう聞くと、その人は少し困ったように笑った。
「“終わった”だけかな。頑張る時間が」頑張る時間。
その言葉に、胸が少しだけ、きゅっとなった。
「私、ちゃんと生きられましたか」
ずっと、誰にも聞けなかった質問。
怒られる気も、呆れられる気もなくて、
ここなら聞いていい気がした。
「生きてたよ」
即答だった。
「泣かなかった日も、泣いた日も。
逃げなかった日も、逃げた日も。
全部、生きてた」
その言葉を聞いた瞬間、
初めて、膝から力が抜けた。
私は、座り込んだ。
でも、床は私を受け止めてくれた。
「……私、弱かったですよね」
「うん」
否定されなかった。
「でもね、弱いまま立ってた」
それだけで、涙が出た。
ここでは、声を殺さなくていいらしい。
泣いても、誰も怒らない。
泣く理由を、問い詰められない。
私は、初めて、
思い切り泣いた。
しばらくして、
ふと気づいた。
「……れんは?」
その名前を出しても、
胸は、もう痛くなかった。
ただ、あたたかいだけだった。
「まだ、生きてるよ」
それでよかった、と思えた。
「会えますか」
「今は、会えない」
即答だった。
少しだけ、寂しかった。
でも、納得もした。
「ここはね、“誰かのために自分を削らなくていい場所”なんだ」
その言葉に、
私は、はっとした。
ずっと、
誰かの未来を守るために、
自分を後回しにしてきた。
その癖が、もう必要ない場所。
立ち上がると、
向こうに小さな家が見えた。
灯りがついている。
あたたかい色。
「……帰っていいんですか」
「うん」
「そこは、怒られない?」
「怒られない」
「名前、呼ばれますか」
少し、震える声で聞いた。
「ちゃんと」
その答えを聞いたとき、
私は、初めて笑った。
遠慮のない笑顔だった。
家の前に立つと、
扉が、静かに開いた。
「おかえり、穂花」
その一言で、
胸の奥で、何かがほどけた。
私は、
極楽浄土に来たんじゃない。
やっと、居場所に着いたんだ。
それだけだった。
振り返ると、
空に、夕焼けが広がっていた。
あの日と同じ色。
でも、もう寂しくない。
私は、小さく手を振った。
――ありがとう。
さようなら。
そして、
はじめまして。
これからの私へ。
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