あなたを知った僕は
それを見つけたのは、引っ越しの準備をしていた日のことだった。
段ボールの底に、古いノートが一冊。
表紙は色あせていて、角が少し折れている。
「……穂花?」
無意識に、名前が口からこぼれた。
もう何年も呼んでいなかったのに、
その二文字は、驚くほど自然に出てきた。
ノートの一番上に、書いてあった。
『僕の思い出』
嫌な予感がして、でも、ページを閉じることはできなかった。
最初の文字を読んだ瞬間、
胸の奥を、何かが強く掴んだ。
――私の家には、笑い声がなかった。
知っている話と、知らなかった話。
笑っていたと思っていた日々の裏側。
何も言わなかった理由。
ページをめくるたび、
過去の記憶が、違う色で塗り替えられていく。
教室で。
帰り道で。
夕焼けの下で。
俺の隣にいた穂花は、
ずっと、こんな気持ちを抱えていたんだと。
手が震えた。
「……馬鹿だろ」
声が、かすれた。
どうして、気づかなかった。
どうして、聞かなかった。
どうして、「大丈夫?」の先を言えなかった。
ページの後半で、
俺は、息ができなくなった。
三十年。
その言葉を読んだ瞬間、
頭が真っ白になった。
知らなかった。
何も、知らなかった。
優しいと思っていた距離は、
守られていたんじゃない。
守らせてしまっていたんだ。
最後のページに、辿り着く。
「ありがとう」
「好きだった」
「さようなら」
文字が滲んで見えた。
「……遅いんだよ」
そう呟いて、
俺は、初めて声を上げて泣いた。
穂花は、
誰かの未来を奪わなかったつもりでいたのかもしれない。
でも、
奪われたままの未来が、
ここにいる。
もし、あのとき。
もし、あの日。
そんな言葉は、何の意味も持たない。
分かっているのに、
考えずにはいられなかった。
ノートを閉じて、
しばらく、何もできずに座り込んだ。
それでも、最後に思った。
穂花は、確かに生きていた。
確かに、俺の人生にいた。
それを、忘れないこと。
それだけは、できる。
俺は、ノートを胸に抱えて、立ち上がる。
夕焼けが、窓の外に広がっていた。
あの日と同じ色。
「……またな」
届かなくてもいい。
返事がなくてもいい。
これは、
遅すぎた俺からの、
ひとつの思い出への挨拶だ。
――君がいた時間は、
今も、ここで生きている。