目次に戻る Ayano

言えなかった言葉

気がつけば、三十年という時間は、もうすぐ終わろうとしていた。
特別なことは、何もなかった。
大きな夢を叶えたわけでも、
誰かに誇れる人生だったわけでもない。

それでも、私は生きた。

壊れた家で、
透明な教室で、
言えなかった恋を抱えたまま。

それが、私の全部だった。

窓の外の空は、あの日と同じ色をしている。
れんと並んで歩いた、夕焼けの色。

あの人は、今、どこで何をしているんだろう。
思い出すたび、胸は少しだけ痛む。
でも、不思議と、後悔はなかった。

私は、知っている。
あの時間が、本物だったことを。

誰にも愛されなかったと思っていた私を、れんは、ただ「穂花」として扱ってくれた。

それだけで、
この人生は、救われていた。

ノートを開く。
そこには、私の字で書かれた言葉が並んでいる。

幼い頃の、震える文字。
少し大人びた、落ち着いた文字。

全部、私だ。

これは、遺書じゃない。
誰かに読んでもらうためのものでもない。

ただ、忘れないために書いた。
私が、ここにいたことを。

もし、ひとつだけ願いが叶うなら、
れんに、伝えたい。

ありがとう。
生きていてよかったと、思わせてくれて。

好きだった。
最初で、最後の恋でした。

でも、その言葉は、
風に溶かして、胸の奥に戻した。

私は、最後まで、
誰かの未来を奪わなかった。

それでいい。

人生は、短かった。
幸せだったかと聞かれたら、
うまく答えられない。

それでも――
私は、ひとりじゃなかった。

思い出がある。
名前を呼んでくれた人がいる。
心が、確かに動いた時間がある。

それだけで、十分だった。

ページの一番下に、私は題名を書く。

『僕の思い出』

これは、
三十年しか生きられなかった私が、
確かに生きた証。

そして――
誰にも言えなかった、
私から世界への、ささやかな挨拶。

「さようなら。ありがとう」
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