遺書を読まないで
第3話 / 全8話 · 5,044字 · 約11分
高瀬由真が死んだのは、十一月の最初の月曜日だった。
自宅マンションの屋上から飛び降りたと聞いた。十三階建ての最上階。即死だったらしい。
僕──柏木健吾は、由真とは同じクラスで、席が前後だった。特別に仲が良かったわけではない。たまにノートを見せ合うくらいの、普通のクラスメイトだった。
だから彼女が死んだとき、僕は泣かなかった。ショックは受けたが、泣くほどの関係ではなかった。そのことに少し罪悪感を覚えた。
異変に気づいたのは通夜の翌日だった。
由真の親友だった水城紗季が、学校を休んだ。三日間。四日目に登校してきた紗季の目は腫れていて、誰とも口をきかなかった。それ自体は当然のことだと思った。親友を亡くしたのだから。
だが僕が気になったのは別のことだった。放課後、紗季が誰もいない教室で由真の机の引き出しを開けているのを見た。何かを探しているようだった。
「水城、何してるの」
紗季は弾かれたように振り返った。その表情は、悲しみではなく恐怖だった。
「……何でもない」
それだけ言って、紗季は教室を出て行った。
噂は翌週から広まり始めた。
「高瀬さん、遺書を残してたらしい」
「でも見つかってないんだって」
「誰かが持ち去ったって話もある」
担任の村上先生は「遺書については確認中」と繰り返すだけで、詳しいことは何も言わなかった。
僕が本格的に気になり始めたのは、由真の母親が学校に来た日だった。職員室の前で村上先生と話している声が、廊下まで漏れていた。
「由真は必ず遺書を書いています。あの子はそういう子でした。きちんと理由を説明しないと気が済まない子だったんです。だから見つからないのはおかしい。誰かが──誰かが隠しているんです」
母親の声は涙混じりだった。
「せめて理由が知りたいんです。なぜあの子が死ななければならなかったのか。遺書があれば──」
僕はその声を聞きながら、紗季のことを考えていた。
僕は探偵ごっこがしたかったわけではない。
ただ、由真の母親の声がずっと頭に残っていた。「せめて理由が知りたい」という言葉。遺書があれば、少なくとも母親は「なぜ」という問いから解放される。それだけで十分な理由に思えた。
手がかりは紗季しかなかった。
僕は慎重に動いた。紗季を問い詰めるのではなく、周辺から情報を集めた。由真のSNSの投稿を遡り、二人の共通の友人に話を聞き、由真が最後の数ヶ月に何をしていたかを調べた。
浮かび上がってきたのは、由真の「秘密」だった。
由真には恋人がいた。同じ学校の生徒だが、クラスは違う。名前は出てこなかったが、女子だった。由真はセクシュアルマイノリティであることを、ごく限られた人間にしか打ち明けていなかった。紗季はその一人だった。
そしてもう一つ。由真が亡くなる二週間前、その恋人と別れていた。別れの理由は、由真が恋人の名前を──名前だけを──クラスの別の子にうっかり漏らしてしまったことだった。恋人はまだカミングアウトの準備ができていなかった。
由真は自分を許せなかった。愛する人を傷つけたことが。
紗季を見つけたのは、放課後の図書室だった。
「遺書を持っているんだろう」
僕は単刀直入に言った。回りくどい聞き方をしても、紗季は答えないと思った。
紗季は長い間黙っていた。そして──
「……読んだの?」
「読んでない。推測だ。由真がなぜ死んだか、おおよその事情は調べた。遺書にはおそらく、恋人のことが書いてある。紗季はそれを見つけて、恋人を守るために隠した。そうだろう」
紗季の目から涙が溢れた。
「……由真はバカだよ。遺書に全部書いてた。自分のセクシュアリティのことも、彼女のことも、別れた理由も。名前も。全部。『自分の愚かさのせいで彼女を傷つけた。もう彼女のそばにいる資格がない』って」
「それが公になれば、恋人のセクシュアリティが──」
「アウティングになる。由真は死んでまで彼女を傷つけるところだった。それだけは止めなきゃって思った。由真にはもう謝る機会がないから、せめて私が──」
紗季は泣きながら続けた。
「由真のお母さんが遺書を探してるのは知ってる。でもあの遺書を渡したら、お母さんは由真が同性愛者だったことを知る。由真はお母さんにだけは絶対に言わないって決めてた。お母さん、すごく保守的な人だから。由真が生きてる間ずっと隠してきたことを、死んだ後に暴くなんてできない」
僕は数日、考え続けた。
紗季の判断は正しいと思った。遺書を渡せば、由真の恋人が望まない形でアウティングされる。由真自身も、母親に知られることを望んでいなかった。紗季は由真の意思と、恋人の安全を、同時に守ろうとしていた。
でも由真の母親の声が、消えなかった。
「せめて理由が知りたい」
母親には知る権利がある──という思いが、僕の中にずっとあった。娘がなぜ死んだか知らないまま生きていくことの残酷さ。遺書があるのに、それを読めないという状況。
そして僕は、あることに気づいた。
遺書を「編集」すればいい。
恋人の名前と性別に関わる部分だけを伏せて、それ以外──由真の苦しみや、母親への感謝の言葉があるならそれを──母親に届ければいい。完璧な解決策に思えた。
紗季に提案すると、彼女は迷った末に遺書のコピーを見せてくれた。僕は該当箇所を黒塗りにし、残りの部分だけを印刷した。恋人の名前もセクシュアリティに関わる記述もすべて消した。ただ由真の苦悩と、「お母さん、ごめんなさい」という最後の一行だけが残った。
僕はそれを由真の母親に匿名で郵送した。
一週間後。
由真の母親が再び学校に来た。
今度は、泣いていなかった。その代わり、顔には鬼のような怒りが張り付いていた。
「黒塗りの遺書が送られてきました」
職員室の前で、母親の声が響いた。
「娘の遺書を誰かが隠し、一部だけ黒塗りにして送りつけてきたんです。これはどういうことですか。隠さなければならない部分があるということですよね。娘は何を──誰に──何をされたんですか」
僕の血が凍った。
当然だった。黒塗りは「何かが隠されている」と宣言しているのと同じだ。全文を読むより、黒塗りの部分がある方が想像力を刺激する。しかも最悪の方向に。
母親は黒塗りの部分に「いじめの加害者の名前」が書かれていると確信した。娘は誰かに追い詰められて死んだのだと。学校が隠蔽しているのだと。
翌日から、母親はSNSで発信を始めた。「娘の遺書が黒塗りで送られてきた。学校は真相を隠している」と。投稿は瞬く間に拡散した。
学校は混乱した。いじめ調査委員会が発足し、クラス全員が個別面談を受けた。由真をいじめた人間がいるはずだと、母親も世間も確信していた。
だが当然、いじめの事実は出てこない。そんなものは最初から存在しないのだから。
調査が長引くにつれ、疑いの目はクラスメイト全員に向けられた。SNSでは「犯人捜し」が始まり、由真と同じクラスだというだけで、名前や顔写真が晒される生徒が出た。
そして──由真の恋人にも、疑いの矛先が向いた。
「高瀬さんと特に親しかったのに、葬儀にも来なかった」「何か隠してるんじゃないか」
恋人は不登校になった。紗季が命がけで守ろうとしたものが、僕の「折衷案」のせいで、もっと残酷な形で脅かされていた。
紗季が僕のところに来たのは、十二月に入ってからだった。
「最悪の結果になった」
紗季の声は平坦だった。怒りを通り越して、何かが壊れた声だった。
「全部渡すか、全部隠すか、どっちかしかなかったのに。あんたが中途半端なことをしたから──」
「……わかってる」
「わかってない。彩香が──由真の彼女が、自分が由真をいじめた犯人だと疑われてるの、知ってる? SNSで名前が出かけてる。私のところにも記者が来た」
「紗季──」
「遺書を全部公開するしかなくなった」
僕は言葉を失った。
「彩香を守るには、もう真実を出すしかない。由真が同性愛者だったこと、彩香と付き合ってたこと、別れたこと、全部。そうしないと彩香がいじめの加害者にされる」
「でもそうしたら──」
「彩香がアウティングされる。由真が一番恐れてたことが起きる。由真が命を賭けて隠したかったことが、全部さらされる」
紗季は僕を見た。静かな、しかし底のない憎悪を湛えた目だった。
「あんたが何もしなければ、遺書は私が処分して終わりだった。由真の秘密は守られた。お母さんは苦しんだかもしれないけど、少なくとも由真の意思は尊重された。彩香も傷つかなかった」
「由真の母親に、理由も知らせずにいるのが正しかったのか」
「正しいかどうかを決める権利が、あんたにあったの?」
一月。由真の母親がSNSに最後の投稿をした。
紗季が提出した完全版の遺書を受けて、いじめ調査は終結した。母親は由真がセクシュアルマイノリティであったこと、恋人との関係で悩んでいたことを知った。
母親の投稿はこう結ばれていた。
「娘のことを何も知らなかった。娘が何に苦しんでいたのか、誰を愛していたのか、何も。知りたかったのに、こんな形で知りたくなかった」
コメント欄は荒れた。由真のセクシュアリティに対する中傷が溢れた。彩香の名前も特定された。二人の関係が、無数の見知らぬ人間の手で切り刻まれた。
由真が命を賭けて守りたかったものは、全部壊れた。
僕が壊した。
「せめて理由が知りたい」という母親の願いに応えようとして。
三月になった。
由真の母親はSNSのアカウントを削除していた。紗季は卒業式に来なかった。彩香は転校した。どこに行ったかは、誰も知らない。
僕は最善の方法を選んだつもりだった。全部隠すのでも、全部明かすのでもなく、必要な部分だけを届けるという折衷案。それが最も多くの人を救う道だと信じていた。
でも死者の言葉は、生きている人間の都合で編集できるものではなかった。
遺書は全部か、無か、だった。
そしてその判断をしていいのは、由真自身だけだった。もう判断できない由真の代わりに、紗季が「無」を選んでいた。僕はそれを覆した。
僕は由真の遺書を読んだ。
由真の秘密を知った。
由真の恋人の名前を知った。
そのどれにも、僕が触れる権利はなかった。
由真の机は教室から撤去された。そこにはもう何もない。でも僕はときどき、あの場所に目をやる。由真が座っていた場所。僕の一つ前の席。
由真は「お母さん、ごめんなさい」と書いた。
僕は誰に謝ればいい?
由真に? 紗季に? 彩香に? 母親に?
全員に謝っても、壊れたものは元に戻らない。
僕が触れるべきではなかったものに触れた瞬間から、何もかもが狂い始めた。善意は免罪符にならない。「知りたいだろう」という想像力は、「知られたくなかった」という想像力の欠如の裏返しでしかなかった。
僕は最後まで、由真の気持ちではなく母親の気持ちだけを想像していた。
生きている人間の痛みだけを見て、死んだ人間の願いを踏みにじった。
それが僕の罪だ。
遺書を読まないで、と。
由真は誰にもそう頼めなかった。だから紗季が代わりに隠した。
僕はその沈黙の意味を読み解けなかった。推理力があるくせに、一番大事なものだけが読めなかった。