証明の代償
第4話 / 全8話 · 4,724字 · 約10分
幼馴染の尾崎透が逮捕されたと知ったのは、日曜の朝だった。
母親が電話で誰かと話しているのを聞いて目が覚めた。「透くんが」「まさか」「人殺し」という断片的な言葉が耳に飛び込んできて、僕は布団から跳ね起きた。
僕──山際悠斗は、透と同じ町で育ち、同じ小学校と中学校に通った。高校は別々になったが、家が三軒隣で、今でもよく一緒にいた。一昨日の土曜日の夜も、透の家でゲームをしていた。
だから僕は知っている。土曜の夜、透が「ある場所」にいなかったことを。
事件の概要はこうだった。
金曜の深夜から土曜の未明にかけて、隣町の会社員・河野俊一(四十二歳)が自宅アパートで刺殺された。死因は腹部への刺傷による失血死。発見は土曜の昼過ぎ。凶器は台所の包丁で、犯人が現場から持ち去った形跡はなかった。
透が容疑者として浮上した理由は三つ。まず、河野のアパートの防犯カメラに、事件のあった時間帯に透に似た人物が映っていたこと。次に、透のスニーカーの靴底パターンが現場近くの泥地の足跡と一致したこと。そして決定的だったのは──透と河野に接点があったことだった。
河野俊一は、透の母親の元交際相手だった。二年前に別れているが、別れた後もしつこく付きまとっていた。透の母親はストーカー被害の相談を警察にしたこともあった。つまり透には動機があった。
だが僕は確信していた。透は犯人ではない。
土曜の夜──正確には金曜の午後十一時から土曜の午前三時まで──僕は透の家にいた。二人でオンラインゲームの大型レイドに参加していた。事件が起きたとされる深夜一時から二時の間、透は僕の隣にいた。コントローラーを握って、ヘッドセットをつけて。
完璧なアリバイだ。
僕はすぐに警察に連絡した。
「尾崎透は犯人ではありません。事件の時間帯、彼は僕と一緒にいました」
事情聴取を受けた。ゲームのログイン履歴、チャットの記録、他のプレイヤーの証言。すべてが透のアリバイを裏付けた。
だが刑事は懐疑的だった。
「幼馴染の証言ですからね。庇っている可能性もある」
「ゲームのログがあるでしょう。透のアカウントは午後十一時から午前三時までずっとログインしてます」
「本人がプレイしていた証拠は? ログインだけなら他人でもできる」
僕は食い下がった。ゲーム内のボイスチャットの録音データを提出した。透の声がはっきり入っている。タイムスタンプも一致する。他のレイドメンバーからも証言を集めた。全員が「尾崎は午前三時までいた」と証言した。
一週間の拘留のあと、透は釈放された。証拠不十分。アリバイが崩せなかったのだ。
透が帰ってきた日、僕は透の家に行った。
「大変だったな」
「……ああ」
透はやつれていた。一週間の拘留は、十七歳の少年には過酷だっただろう。僕は何か温かいものでも作ろうかと台所に立った。
透の母親は不在だった。透によると、この一件でまた体調を崩して、実家に帰っているらしい。
台所の流しに、洗い物がたまっていた。一人暮らしの数日分だろう。コップや皿を洗いながら、ふとシンクの下の扉が少し開いているのが目に入った。
何気なく閉めようとして、手が止まった。
シンク下の排水管の奥、配管の影に隠すようにして、ビニール袋に包まれた何かがあった。
見なければよかった。
開けなければよかった。
ビニール袋の中にあったのは、黒い手袋と、暗い色のパーカーだった。パーカーの袖口に、褐色のシミがあった。乾燥した、赤黒い染み。
僕はしばらく動けなかった。
パーカーを元に戻し、ビニール袋を閉じ、シンク下の扉を閉めた。
居間に戻ると、透がソファに座っていた。テレビの電源は入っていなかった。
「悠斗」
「ん」
「……ありがとな」
透はこちらを見なかった。
「アリバイ、証明してくれて。お前がいなかったら、俺──」
「いいよ。幼馴染だろ」
僕の声は普通だっただろうか。わからなかった。
帰り道、僕は自分が見たものについて考えた。
手袋とパーカー。袖口の褐色のシミ。それだけで何かを断定するのは早計だ。ペンキかもしれない。錆かもしれない。古い服を捨てようとしていただけかもしれない。
だがそれをシンクの下の配管の裏に隠す理由が、僕にはどうしても思いつかなかった。
そして一つの記憶が蘇った。
あの夜──金曜の夜、僕が透の家に着いたのは午後十一時だった。透は玄関で待っていて、「さっきシャワー浴びたところ」と言った。髪がまだ少し湿っていた。
深夜の十一時にシャワーを浴びる。それ自体はおかしくない。
でも──もし、午後十時台に「何か」をして、その痕跡を洗い流してから僕を迎え入れたのだとしたら。
河野のアパートは、透の家から自転車で十五分の距離にある。
犯行推定時刻は「深夜一時から二時」とされていた。だがそれは推定だ。死亡推定時刻にはつねに幅がある。もし実際の犯行が午後十時台だったなら──僕が来る前だったなら──
僕のアリバイ証明は、何も矛盾しない。「午後十一時から午前三時まで一緒にいた」のは事実だ。嘘はない。
ただ、僕が証明したのは「犯行推定時刻のアリバイ」であって、「犯行が不可能であること」ではなかった。
僕は何をすべきだろう。
警察に連絡するか。「シンクの下に不審なものがありました」と。証拠隠滅を見て見ぬふりしたと問われるかもしれない。そもそも、あのシミが血液である保証はない。
でも。
河野俊一は死んだ。刺し殺された。犯人はまだ見つかっていない。
いや──犯人は一度見つかった。透として。そして僕が、全力でそれを覆した。
もし透が本当にやったのなら、僕は殺人犯のアリバイを証明した共犯者だ。
もし透が本当にやったのなら、河野の遺族は永遠に正義を得られない。僕のせいで。
だが、もう一つの考えが頭をもたげる。
河野俊一は、透の母親につきまとっていた男だ。ストーカーだ。警察に相談しても解決しなかった。接近禁止命令を申し立てても、河野は構わず現れ続けた。透の母親は怯え、体調を崩し、何度も引っ越しを考えた。
透は母親を守りたかっただけなのかもしれない。
十七歳の少年が、母親を守る手段として最悪の選択をしたのだとしたら。
僕はその事情を知っている。河野がどれだけ透の母親を苦しめたか。透がどれだけ無力感を味わってきたか。中学のとき、河野が家の前に立っているのを見て透が震えていたのを、僕は覚えている。
その記憶が、僕の口を閉ざす。
正義と友情を天秤にかけているつもりはなかった。でも気づけば、僕は何もしないまま日々を過ごしていた。
十二月になった。河野俊一の事件は未解決のまま、ニュースから消えていった。
透とは以前と同じように、週末にゲームをした。学校帰りにコンビニに寄った。くだらない話をして笑った。
何も変わらなかった。表面上は。
でも僕は、透の右手を見るたびに考えてしまう。その手が包丁を握ったのかどうかを。
そして透は、僕の目を見るたびに何を考えているのだろう。「こいつは知っているのか」と。「知った上で黙っているのか」と。
僕たちの間にある沈黙は、以前の「気楽な無言」ではなくなっていた。互いの腹の中を探り合う、薄氷の上の均衡だった。
ある夜、ゲームをしながら透がぽつりと言った。
「悠斗、お前って本当にいい奴だよな」
「何だよ急に」
「いや、別に。ただ思っただけ」
透は画面を見つめたまま続けた。
「お前みたいな奴がそばにいてくれて、俺は運が良かった」
それが感謝なのか、確認なのか、それとも脅しなのか、僕にはわからなかった。
わからないまま、僕は「そっか」とだけ返した。
一月の終わりに、河野俊一の事件の続報が地方紙に載った。
小さな記事だった。「捜査本部は引き続き情報提供を呼びかけている」という定型文。その隣に、河野の母親のコメントが添えられていた。
「息子は確かに問題のある人間でした。でも殺されていい人間なんていません。犯人が見つからないまま年を越すなんて、私には耐えられません」
僕は新聞を閉じた。
河野の母親にとって、息子は息子だ。ストーカーであろうと、問題を抱えていようと。親が子の死の真相を求めるのは当然のことだ。
その当然の権利を、僕は奪っている。
もし透が犯人なら。もし僕のアリバイ証明がなければ、真相は明らかになっていたかもしれないのなら。
僕は透に聞くことができなかった。「お前がやったのか」と。聞けば、答えが返ってくる。その答えがどちらであっても、僕の世界は壊れる。
やったと言われれば、僕は共犯者になる。
やっていないと言われれば、僕はあのパーカーのことを一生抱え続ける。信じたいのに信じきれない、という地獄を。
だから僕は聞かない。聞けない。
僕はもう、透に何も聞けない。
僕が証明したアリバイは取り消せない。一度「無実」を公に証言した人間が、「やっぱり怪しい」と言い出すことの意味。それはアリバイの撤回ではなく、僕自身の信用の崩壊であり、虚偽証言の可能性を意味する。
僕は正しかった。透は午後十一時から午前三時まで、僕と一緒にいた。それは事実だ。
でもその事実が何を覆い隠しているのか、僕はたぶん知っている。
そして知っているのに黙っている僕は、もう「善意の証言者」ではない。
共犯者だ。
二月の朝、学校に行く途中で透とすれ違った。
互いに軽く手を挙げた。いつもの挨拶だ。透は笑っていた。いつもの、屈託のない笑顔。
その笑顔が本物なのか、演技なのか、僕にはもうわからない。
わからないのに、僕も笑い返した。
透の隣に座ってコントローラーを握るたび、僕はそのことを思い出す。画面の中でモンスターを倒しながら、僕たちは何も言わない。二人の間にある沈黙が何を意味するのか、互いにわかっていて、それでも言葉にしない。
それが僕たちの友情の、新しい形になった。
幼馴染。親友。そして──もしかしたら──共犯者。
その三つの言葉が重なり合って、もう剥がせなくなっている。
僕は毎晩、シンクの下の暗闇を思い出す。配管の影に押し込まれたビニール袋。褐色の染み。あれが何だったのか、僕は確かめていない。確かめる勇気がない。
確かめないことが、僕の選択だ。
そしてその選択を、僕は毎日繰り返している。確かめない、聞かない、言わない。その三つの「しない」で、僕は透との日常を維持している。
それを友情と呼ぶのか、共犯と呼ぶのか。
その境界線は、もうとっくに消えている。