共犯者は全員
第6話 / 全8話 · 4,738字 · 約10分
放課後の教室に駆けつけたとき、浅川楓は床に倒れていた。
意識はあったが、焦点の合わない目で天井を見つめていた。口の端に泡のような唾液が溜まっていて、呼吸が浅く速かった。
僕──園田陸は、たまたま教室に忘れ物を取りに戻っただけだった。その場にいたのは僕のほかに四人。白石、千葉、栗原、藤井。全員が同じクラスだった。
白石がスマホを握りしめたまま立ち尽くしていた。千葉は窓際で顔を背けていた。栗原は浅川のそばにしゃがみ込んで名前を呼んでいた。藤井は教室の入口近くで、廊下を見張るように立っていた。
「何があった」
僕が聞くと、四人は顔を見合わせた。
「わからない」と、白石が言った。
「教室に来たら倒れてた」と、千葉。
「私たち、何もしてない」と、栗原。
藤井は何も言わなかった。
救急車を呼んだ。浅川は搬送され、翌日には意識が回復した。医師の診断は急性薬物中毒。処方薬の大量服用だった。命に別状はないが、意図的な過量摂取の可能性が高いとのことだった。
学校側は「事故」として処理しようとした。だが僕はあの教室の空気が引っかかっていた。四人の反応が、あまりにもバラバラだったのだ。
全員が「何もしていない」と言った。だが全員が、それぞれ違う種類の怯え方をしていた。
僕は一人ずつ話を聞くことにした。おせっかいだとはわかっていた。でも浅川楓は──僕が片想いしている相手だった。その感情が、冷静な判断を曇らせていたのだと、今ならわかる。
最初に話したのは白石だった。クラスのムードメーカーで、SNSのフォロワーが多い女子だ。
「本当に何も知らない。教室に来たら楓が倒れてたの。びっくりしてスマホ握ったまま固まっちゃって」
「じゃあなんで放課後に教室にいたの」
「……荷物を取りに」
嘘だ、と僕は思った。白石の荷物はすでにまとまっていた。教室に来た目的が荷物でないなら、何だ。
調べていくうちに、白石の嘘が見えてきた。白石は二週間前、浅川のプライベートな写真──着替え中の写真を、クラスのグループLINEに誤爆していた。「間違えた」とすぐに削除したが、スクリーンショットは出回っていた。白石はその件で浅川に謝罪していた──が、それが本当に「誤爆」だったのかは、クラスでは疑われていた。
白石が放課後教室にいたのは、浅川に改めて謝るためだった。だが来たときにはもう浅川は倒れていた。白石は「自分のせいで」と思い、それを隠すために「何も知らない」と言った。
千葉は成績優秀な男子で、浅川と同じ大学を志望していた。
「俺は関係ない。たまたまいただけだ」
だが千葉にも隠し事があった。千葉は一ヶ月前、浅川の小論文の下書きを盗み見て、自分の出願書類に一部流用していた。浅川はそれに気づいていたが、証拠がないため表沙汰にできなかった。千葉は浅川が教師に相談するのではないかと恐れ、放課後に様子を見に来ていた。
浅川が倒れているのを見た千葉は、「自分の盗用がストレスの原因ではないか」と怯え、窓際に逃げるように離れた。
栗原は浅川の数少ない友人だった。そばにしゃがみ込んで名前を呼んでいた彼女だけが、嘘をついていないように見えた。
だが栗原にも、隠していたことがあった。
浅川が精神科に通院していることを、栗原だけが知っていた。処方薬を飲んでいることも。一週間前、浅川が「もう疲れた」と漏らしたことも。
栗原は、それを誰にも言わなかった。浅川に「絶対に言わないで」と頼まれていたからだ。
「楓に約束したの。秘密にするって。それが友達でしょ」
「でも、もし危険な兆候だったなら──」
「知ってた」
栗原の声が震えた。
「知ってたよ。危ないかもって。でも楓に嫌われたくなかった。先生に言ったら、楓はもう私に何も話してくれなくなる。それが怖かった。楓との友情を守りたかったの。……結果的に、楓の方を守れなかった」
藤井は最も寡黙な生徒で、話を聞き出すのに最も時間がかかった。
藤井は、浅川の元恋人だった。夏に別れて以来、ろくに口を聞いていなかったらしい。
「別れた理由は」
「……俺が浮気した」
「浅川はどう反応した?」
「泣いた。でもすぐに『大丈夫』って言って笑った。それからずっと、普通に挨拶してくれてた」
「じゃあなんで教室にいた?」
「……楓が最近おかしかったから。痩せてたし、笑い方が変だった。前と違う笑い方だった。心配だったけど、俺には声をかける権利がないから。だから遠くから見てるだけで──」
藤井は入口に立っていた。廊下を見張るように。あれは「見張り」ではなく、「入れなかった」のだ。教室に足を踏み入れる勇気がなくて、入口で立ち尽くしていた。
「楓が倒れてるのを見て、栗原が駆け寄って、俺は──何もできなかった。俺がちゃんとしてれば、楓は──」
四人の話をすべて聞き終えたとき、僕は吐きそうだった。
誰も浅川を「直接的に」傷つけてはいなかった。
だが全員が、それぞれの形で浅川を追い詰めていた。
白石は浅川の尊厳を傷つけた。千葉は浅川の努力を踏みにじった。栗原は浅川のSOSを抱え込んだ。藤井は浅川の心を壊して、そのまま放置した。
そして全員が、それを「知っていた」。自分のしたことが浅川を傷つけた可能性があると、全員がわかっていた。だから全員が嘘をついた。「何もしていない」と。
形式的には事実だった。あの教室で、あの瞬間、四人は何もしていない。浅川が薬を飲んだのは一人のときだろう。
でも浅川を薬に手を伸ばすところまで追い込んだのは、四人の「些細な加害」の累積だった。一つ一つは致命的ではない。写真の誤爆、小論文の盗用、秘密の保持、恋人の裏切り。どれも、それだけなら「よくあること」で片付けられる程度の出来事だ。
でもそれが一人の上に全部降りかかったとき、浅川楓の心は処方薬の瓶に手を伸ばした。
僕は真相を誰かに報告すべきなのか、迷った。
でも──報告して、何になる。
白石を罰するのか。写真の誤爆で。千葉を告発するのか。小論文の流用で。栗原を責めるのか。友達との約束を守ったことで。藤井を糾弾するのか。浮気と、その後の距離の取り方で。
どれも、法律には触れていない。校則にすら抵触するか怪しい。
そして僕自身はどうだ。
浅川楓に片想いをしていた僕。彼女の異変に気づいていた僕。最近痩せたな、と思っていた僕。笑い方が変わったな、と気づいていた僕。
何もしなかった僕。
僕は五人目の共犯者だった。
浅川が退院したのは二週間後だった。
学校には戻ってこなかった。しばらくは自宅療養だと担任が言った。
クラスでは何事もなかったかのように日常が続いた。白石はSNSに投稿を続け、千葉は模試に向けて勉強し、栗原は新しい友人グループに溶け込み、藤井は変わらず寡黙に過ごしていた。
そして僕も、授業を受け、帰宅する毎日を送っていた。
誰も罰されなかった。
誰も悪くなかった。
全員が少しずつ悪かった。
そしてその「少しずつ」の総量は、一人の女の子が死にたくなる程度には十分だった。
十二月の終わり、僕は浅川の家を訪ねた。
直接会う勇気はなかった。ただ手紙を書いて、ポストに入れた。自分が何者かは書かなかった。ただ「あなたのことを気にかけている人間がいます」とだけ。
それすらも、ひどい欺瞞だと思った。
気にかけていた。気づいていた。でも何もしなかった。
あの放課後の教室で、僕がもっと早く来ていたら。あるいはもっと前の段階で──浅川が痩せていくのを見て、笑い方が変わったのに気づいて──声をかけていたら。
でもそういう「たられば」は、自分を慰めるための装置でしかない。
現実には、僕は何もしなかった。気づいていて何もしなかった人間は、気づかなかった人間より罪が重い。
一月の始業式の日、浅川の席にまだ浅川はいなかった。
担任が言った。「浅川さんは三学期も休みます」と。それだけ。クラスメイトは頷いて、時間割の確認に移った。
その夜、僕は栗原からLINEを受け取った。
「園田くん、あのあと四人にはもう何も聞いてないよね」
「聞いてない」
「そう。ありがとう」
ありがとう。
栗原は僕に感謝していた。真相を追及しないでくれて、と。秘密を守ってくれて、と。
でもそれは、僕が真相を追及しなかった結果、四人が自分の加害と向き合わずに済んだということだ。僕の沈黙が、四人の──そして僕自身の──免罪符になった。
浅川だけが苦しんで、それ以外の全員が日常に戻った。
それが、僕が「真相を知った」ことの結末だった。
二月の半ば、浅川のSNSが更新された。
写真はなく、テキストだけの投稿だった。
「少しずつ元気になってきました。心配してくれた方、ありがとうございます」
いいねが百以上ついていた。白石もいいねを押していた。千葉も。藤井も。
栗原はコメントを残していた。「待ってるよ」と。
僕もいいねを押した。
浅川はきっと知らない。いいねを押した人間の中に、自分を追い詰めた全員がいることを。そしてその全員が、心の底から浅川の回復を願っていることを。善意と加害が同一人物の中に矛盾なく共存している、そのおぞましさを。
僕たちは浅川を傷つけた。
僕たちは浅川の回復を祈っている。
その二つの事実は矛盾しない。矛盾しないことが、一番おぞましい。
浅川の机は、ずっと空席のままだ。
僕たちは毎日その空席を見て、何も感じないふりをしている。
感じないふりが日に日にうまくなっていく。
それが一番怖い。
四月になれば新しい学年が始まる。クラス替えがある。浅川の空席はなくなる。物理的に、浅川がいない教室にいたという事実が、僕たちの日常から消える。
白石は新しいクラスで新しいフォロワーを増やすだろう。千葉は志望校に合格するだろう。栗原は新しい友人を見つけるだろう。藤井は新しい恋人ができるかもしれない。
そして僕は、浅川のことを少しずつ忘れていくのだろう。片想いの記憶は美化され、あの放課後の教室の空気は薄れ、四人から聞いた告白はディテールを失っていく。
僕たちは忘れる。人間は忘れるようにできている。
でも浅川は忘れない。
浅川の体が覚えている。処方薬を大量に飲み込んだ喉の感覚。意識が遠のいていく恐怖。天井だけが見えた、あの教室の冷たい床。
浅川だけが覚えていて、僕たちは忘れていく。
それが、この事件の本当の残酷さだ。
犯人はいない。被害者だけがいる。
そして被害者だけが、ずっと、一人で覚えている。