目次に戻る 天使総裁特別補佐

第一話 十の空白と二人の誠

重い扉の閉まる音が、脳髄に響いた。
冷たい床に転がっていた私は、這いずるようにして上体を起こす。
「……ここ、は……」
広いリビング。高い天井。暖炉の火だけが、不気味に赤く揺れている。
そこには私の他に、男女合わせて9人の若者が倒れていた。全員、見覚えがない。
「おい、みんな起きろ!」
一人の男が叫ぶ。困惑が広がる中、私たちは自分たちが「大学生」であるという記憶以外の、すべてを失っていることに気づいた。なぜここにいるのか。そして、自分が誰なのか。
「……待て。ポケットに何か入ってる」
一人の女が、震える手で一枚のカードを取り出した。そこには、一つの名前が印字されている。
他の9人も、競うように自分の持ち物を探った。学生証、財布、手帳。バラバラの記憶を繋ぎ合わせるように、10人の名前がリビングに響く。
「俺は、佐伯 誠(さえき まこと)だ」
「私は、藤崎 凛(ふじさき りん)……」
ようやく自分の「名前」を取り戻し、安堵の空気が流れたのも束の間。
最後の一人、静かに座っていた男が、青ざめた顔で自分の学生証をテーブルに置いた。
「嘘だ……。俺の名前も、佐伯 誠だ」
リビングの明かりに照らされたまま、二人の「佐伯 誠」が顔を見合わせた。
静寂が部屋を支配する。一文字も違わない氏名、しかし全く異なる二人の顔。
「冗談だろ……? 双子か何かか?」
誰かが掠れた声を出したが、二人の佐伯はお互いに初対面であることは、その怯えきった視線が物語っていた。
「……待って。私の学生証、写真が変なの」
藤崎凛が震える手でカードを差し出した。
そこに写っていたのは、彼女の顔ではなかった。目鼻立ちが曖昧で、まるで泥を塗りつぶしたような「顔のない人間」が、藤崎凛の服を着て微笑んでいる。
「俺のもだ」「私のも……」
次々と確認される証拠品。名前は確かに自分たちのものだが、証明写真のすべてが「正体不明の何か」に書き換わっていた。
その時、暖炉の火が激しく爆ぜ、パチリと火の粉が舞った。
誰かが気づく。リビングの壁に掛かった大きな古時計の裏側から、赤黒い液体がじわりと染み出し、床に向かって滴り落ちていることに。
「おい、あの時計……裏に何かあるぞ」
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