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第2話 / 全11話 · 2,202字 · 約5分
# 第1章 すれ違いの朝
## 1
渋谷駅のホーム。朝の8時17分。
加藤颯太は、いつもの位置——4号車の前から3つ目のドア——に立っていた。理由はもちろん、彼女がそこから乗ってくるからだ。
彼女が誰かは知らない。名前も、クラスも、何も知らない。ただ毎朝、この駅のこの場所で、すれ違う。
黒いリボンで結ばれたストレートの髪。白いイヤホンから垂れるコード。文庫本を開くときの、ほんの少し首をかしげる癖。
知らないはずなのに、知っている。気づけば目で追っていた。
今日も彼女はいた。紺色のセーラー服に身を包み、ホームのベンチに座って本を読んでいる。朝日が横顔を照らして、まつげが長いことを、また一つ、余計な情報が増えた。
電車が滑り込んでくる。彼女が立ち上がる。颯太はさりげなく視線を逸らした。
——今日も、いいや。
そう思った瞬間だった。
「……っ!」
彼女の足がもつれた。カバンから落ちそうになった文庫本を抱え、体が大きく傾ぐ。
無意識だった。
「危ない!」
颯太は一歩踏み出し、彼女の腕を掴んで引き寄せていた。彼女の体が咄嗟に颯太の胸にぶつかる。甘いシャンプーの香りが一瞬鼻を抜けた。
「あ……ご、ごめんなさい!」
彼女が慌てて離れる。顔が真っ赤だった。
「いや、大丈夫? 足、ひねったりしてない?」
「だ、大丈夫です! ありがとうございます……」
彼女は何度も頭を下げながら、電車に乗り込んだ。颯太も続いて乗る。ドアが閉まる。
車内はそこそこ混んでいた。彼女は颯太の隣——本当にすぐ隣——に立っていた。いつもはもっと距離があるのに。
二人分の沈黙が、やけに意識される。
「あの」
彼女の声に、颯太の心臓が跳ねた。
「さっきは、本当にありがとう。危なかったです」
「うん。気をつけて」
彼女が笑った。それはもう、朝日みたいな笑顔だった。
颯太はその笑顔を目の端に焼き付けながら、平静を装ってスマホをいじるふりをした。心臓がうるさい。絶対、顔に出てる。
電車が次の駅に着く。彼女が降りる——と思ったら、まだだった。あと三駅はあるはずだ。いつもそうだから知っている。
ふと、彼女の手に目がいく。文庫本を握る指が、きれいだった。
## 2
学校に着いても、心臓の落ち着かないままだった。
颯太は下駄箱で上履きに履き替えながら、さっきの感触を反芻していた。掴んだ腕の細さ。ぶつかった瞬間の体温。あの笑顔。
「おはよー、颯太。なんかぼーっとしてるけど?」
「……っ!?」
声をかけられて、颯太は肩を跳ねさせた。幼なじみの高梨亮太が、にやにやしながら立っている。
「お、反応が怪しい。何かあった?」
「別に。何も」
「朝からニヤけてるくせに」
「ニヤけてない」
「してた」
亮太はテニスバッグを担ぎ直しながら、「ま、言いたくなったら聞くわ」と言って先に行った。
颯太はため息をついた。バレバレだったかもしれない。いや、でも、あれは別に何でもない。ただ、知らない人を助けただけだ。それ以上でも以下でもない。
そう自分に言い聞かせながら教室に向かう。のれんをくぐるように引き戸を開けて——。
「おはよーっ!」
——その声に、全身が凍りついた。
教室の前方、窓際の席。そこに、彼女がいた。
紺色のセーラー服。黒いリボン。ストレートの髪。
今朝、電車で助けたあの彼女が、颯太のクラスにいた。
「あ」
彼女も颯太に気づいた。目が合う。ほんの一瞬、固まって——。
「あ! さっきの!」
満面の笑顔で、彼女が手を振った。
教室中が、注目した。
「おまえ、林と知り合いなの?」
亮太が後ろから耳打ちする。
林——姓がわかった。苗字がわかっただけで、颯太の胸はもういっぱいだった。
「えっと……その……」
「今朝、助けてもらったんだ!」
彼女——林桜が、明るく宣言した。
「ホームで転びそうになって。この人が助けてくれたの!」
「うぉ、ナイス颯太!」
「まじか、加藤が女子助けたって」
「しかも林さん!?」
クラスの空気が一気に湧く。冷やかし半分、純粋な驚き半分。颯太の顔が一気に赤くなった。
「ちょ、ちょっと静かに……!」
「照れてるー!」
「かわいい!」
女子からも声が飛ぶ。林さんまで笑っている。
颯太は自分の席に逃げ込むように座り、顔を伏せた。机の下で握った拳が震えていた。
隣の席——本当に隣——に、林桜が座った。
「隣だったんだね」
柔らかい声が、耳に届く。
颯太は顔を上げられなかった。上げたら、心臓が持たない。
「うん」
「よろしくね、加藤くん」
「……よろしく」
これが、すべての始まりだった。
知らないふりをして見ていたあの人が、隣の席に座っている。名前を呼ばれた。声を聞いた。笑顔を見た。
それだけで、世界が変わってしまった。