■ アーカイブ記録:禍象#002 番外編『会津・某野戦病院 軍医の遺書』
(※本ファイルは、禍象#002の発生地で回収された軍医の手記を現代語訳したものである。本記録は完全な主観視点で記述されており、事象による精神汚染の過程を示す資料としてノーカットで保存されている)
慶応四年 八月某日
負傷者の数が限界を超えた。
本堂から縁側、境内の庭に至るまで、手足を失い腹を破られた兵士たちが折り重なっている。医薬品は三日前に尽きた。麻酔もない。清潔な布もない。我々にできるのは腐りかけた四肢をノコギリで切り落とし、傷口を焼鉄で塞ぐことだけだ。毎日、十人、二十人と死んでいく。
衛生兵たちは逃亡するか、狂って山へ消えた。残っている医師は私を含めて三人になった。
昨日、数名の兵士の傷口に奇妙な瘤が発生しているのを発見した。赤黒く、心臓のように脈打つ肉の塊だ。新種の感染症か、衛生環境による腫瘍だろうか。切除を試みたが、メスを入れた途端に兵士が異様な悲鳴を上げたため、経過を観察することにした。
八月某日
あの肉の瘤が、一夜で拳大にまで肥大化している。
それだけではない。瘤の表面に、裂けた唇のような空洞が形成されている。
そしてーー私は確かに聞いた。
重傷で意識が混濁しているはずの兵士の腹部の瘤から、声が聞こえた。
「あなた、ご無事で。あなた……」
若い女の声だった。兵士の故郷の妻の声だろうか。兵士が腹話術のように声を出しているのかとも疑ったが、声帯の構造上、あの声は出せない。
瘤そのものが喋っている。
私は恐怖でメスを取り落とした。だが、瘤に寄生された兵士は穏やかな顔で微笑んでいる。「あぁ、おしず……お前なのか。俺はここにいるぞ……」
彼らは、あの肉の塊を撫でている。
九月某日
寺院内が声で満ちている。
肉の瘤は他の傷兵にも広がった。数十人の兵士の喉、胸、腹に瘤が張り付き、一斉に声を発している。
「父上、早く帰ってきて」
「隊長、自分を置いて逃げてください」
「お前はよくやった、立派な武士だ」
妻の声、子供の声、死んだ戦友の声、親の声。彼らが人生で最も聞きたかった声が、完全な音色と抑揚で重なり合って堂内に響いている。
私は残った二人の医師と共に瘤の強制切除を試みた。しかし兵士たちは狂乱して我々に襲い掛かってきた。「俺の家族を奪うな」「俺の戦友を殺す気か」と。
彼らにとって、あの肉塊はもはや身体の一部ではない。彼らの最愛の人間そのものになっている。肉塊は栄養を吸い尽くし、兵士たちの身体は干からびているのに、彼らは瘤に耳を傾け続けている。
九月某日
医師の一人が首を吊った。もう一人は、耳に火箸を突き立てて死んだ。
私は一人になった。
逃げ出そうとした。何度も。だが足が動かない。
昨日、私の腕にも寄生した。
いつの間にかできていた小さな擦り傷から赤黒い肉芽が吹き出し、今は梅干しほどの大きさになっている。
切除しなければ。わかっている。今ならまだ間に合う。メスでえぐり取ればいい。
だが、瘤から「おとうさま」と聞こえた。
二年前に流行り病で死んだ娘の声だ。
間違いない。あの舌足らずで、少し鼻にかかった声。最後に「苦しいよ」と言いながら私の腕の中で冷たくなった、あの娘の声だ。
「おとうさま、いたくないよ。もういたくないよ。ずっと一緒にいようね」
私はメスを床に捨てた。
九月某日
堂内の兵士たちは、次々と首から上が巨大な肉の塊に変わっていく。
顔は食い破られ、脳髄は吸い尽くされ、首の上に肉の塊が残っている。
彼らが発する声も変わった。
最初は家族の声だった。だが今は、聞いたこともない言語の悲鳴、機械が軋むような音、そして空から数え切れない鉄の塊が降ってきて何万人もの人間が一瞬で灰になるような音が混ざり始めている。
うるさい。うるさい。うるさい。
だが私の腕の瘤は、まだ娘の声で囁いてくれる。
瘤は大きくなり、今では肩を覆うほどになった。娘が抱きついているようだ。
でも、娘の声が少し遠くなってきた。
もっと近くで聞きたい。もっと頭の近くで。
そうだ、喉だ。
私の喉を、この肉に捧げよう。そうすれば、ずっと娘の声を頭の中で聞き続けることができる。
今から私は自分の気管を切り開く。そしてこの肉をそこに埋め込む。
おとうさまは、もうどこにも行かないよ。
ずっとお前と一緒に————
(※手記はここで途絶えている。手記には大量の乾燥した血肉が付着しており、執筆者が最後に自らの気管を切開した事実を裏付けている)
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