表示設定

文字サイズ
行間
フォント
背景
文字方向

【番外編】ノモンハン・ある特務生存者の手帳

第8話 / 全12話 · 1,555字 · 約4分

■ アーカイブ記録:禍象かしょう#005 番外編『ノモンハン・ある特務生存者の手帳』
(※本ファイルは、禍象#005のオリジナル着用者である加藤二等兵がノモンハン事件の戦場で記した野戦手帳を電子アーカイブ化したものである。事象による心理的影響を示す資料として保存されている)






昭和十四年 八月某日
ソ連軍の戦車の数が多すぎる。
対戦車砲は弾を撃ち尽くした。今は皆でタコツボに縮こまり、榴弾の雨が止むのを待つだけだ。
小隊の半数はもう死んだ。俺の隣には同郷の鈴木がいる。出征前、一緒に死のうと誓い合った仲だ。
お袋が徹夜で縫ってくれた千人針を腹に巻いていると、少しだけ震えが収まる気がする。お袋は「村の神様の特別な編み方をしたから、絶対に弾は当たらない」と笑って送り出してくれた。ありがたいが、この鉄の雨の中で布切れが何の役に立つのか。
先ほど、俺たちのすぐ横のタコツボに迫撃砲が落ちた。土煙が上がり、俺は死を覚悟して目を閉じた。
だが爆風も熱も来なかった。
目を開けると、俺の体は無傷だった。しかし隣にいた鈴木の首から上がなかった。
砲弾の破片は真っ直ぐ俺の顔面に向かっていたはずだ。空中で急にカーブを描いて、隣で這いつくばっていた鈴木の顔を吹き飛ばした。
俺の顔には鈴木の血と脳漿がべったりとこびりついていた。

八月某日
狂っている。
昨日から小隊長も伍長も衛生兵も皆死んだ。
だが俺だけがかすり傷一つ負っていない。
ソ連兵の機関銃掃射を受けた時、俺は逃げ遅れて平原に立ち尽くしていた。何十発もの弾丸が俺に向かって飛んできた。弾は一つも当たらなかった。すべて俺の数十センチ手前で不自然に曲がるか弾き飛ばされた。
そして俺を避けた弾丸は、塹壕の奥に隠れていた小隊長の胸を正確に貫いた。
俺の足元で爆発した手榴弾の爆風は、俺の軍服の裾一つ揺らさなかった代わりに、十メートル後ろで負傷者の手当てをしていた衛生兵の体を真っ二つに引き裂いた。
わかってしまった。
お袋の千人針だ。
これが俺を守っている。弾も爆風も熱もすべてこの布切れが弾き返している。
だが弾き返された死はどこへ行く。
消えるわけじゃない。俺が死ななかった代わりに、俺の近くにいる人間が、俺の代わりに死んでいる。
俺の親しかった順番に。
鈴木、小隊長、衛生兵。俺が心を許した人間から順番に肉体を破裂させて死んでいく。

八月某日
部隊は全滅した。
俺の周りには三十人以上の戦友の死体が、俺を中心に放射状に転がっている。
全員、俺の身代わりだ。
ソ連の戦車が近づいてくる。キャタピラの音が地鳴りのように響いている。
腹の千人針が心臓のように脈打っているのがわかる。これがお袋の呪いだ。「息子だけは生きて帰ってほしい」という、他の誰が死んでも構わないという呪いだ。
外さなければ。
この千人針を外さなければ、俺は人間の心を持ったまま生きていけない。
布を解いて、俺も戦友たちと同じように死ななければ。
手が震える。
結び目に手をかけた。
だが遠くで戦車砲がこちらに向けて火を噴くのが見えた。
怖い。
死にたくない。
弾が俺の顔に向かって飛んでくるのが見える。
俺は千人針から手を離し、両手で耳を塞いで泥の中に丸くうずくまった。
俺は悪くない。俺は悪くない。俺は悪くない。俺は悪くない。俺は悪くない。俺は悪くない。俺は悪くない。死にたくない。死にたくない。
助けてお袋。




(※手帳の記述はここで終わっている。事後の調査において、加藤二等兵を攻撃したソ連軍の戦車は、砲弾が砲身内で左巻きに詰まる物理的異常を起こし、暴発して乗員もろとも爆散していた。周囲に身代わりとなる味方が存在しなかったため、禍象は攻撃者自体へ死の確率を転嫁したと推測される)
[/box]
« 前の話 目次 次の話 »

この話への感想

まだ感想はありません。